01.それは呼び声にも似た

 
今日も夕実は近くの公園を散歩していた。 4月の初め、夜の空気はまだ冷たい。 昇りかけた月と散る寸前の満開すぎる桜がぴったりだった。 旋律が、聴こえた。 それは間違いなくフルートの音色だ。 「タイスの瞑想曲・・・。」 のびのびと美しいその旋律に、夕実はしばらく耳を傾けていた。 夜10時を過ぎた公園に流れるフルートの音。 夕実はなぜか不気味であるとも、怪しくも感じていない。 ただ、ピアノが弾きたいと思った。 いますぐ帰ってピアノを弾きたかった。 久しぶりのその衝動に夕実はくるりと逆方向に向き直ると、今来た道を帰っていった。 家に帰ってすぐに、夕実はピアノの前に座った。 フルートの音は、まだ頭の中に響いている。まるでこのままここで、伴奏をつけられるくらいに。 フルートを握ったことがある者ならきっと1度は触れるだろうその名曲は、 丁寧に、大切そうに奏でられていた。 もしかしたら、思い入れのある曲なのかもしれない。 夕実もいつになく、慎重に鍵盤の上に両手をのせる。 流れ出したのは、ドビュッシーの月の光。 夕実がピアノを始めたきっかけはこの曲だった。 それはもう随分昔のことで、その時弾けるはずもないと愕然としたこの曲も今では 簡単に楽譜をおうことができる。・・・完成しているかどうかは別として。 隣のお兄さんがピアノの楽しさを教えてくれた。 ――男の子でピアノを習うなんてめずらしいし、初めは変な人とさえ思っていたのに。 ある日ふと聴こえてきた旋律に、夕実ははっとしたのだ。 気づいたらここまで来ていた、と思う。 隣のお兄さんが引っ越してしまっても、友達が次々にピアノ教室をやめていっても 夕実はピアノを弾き続けていた。 そしてここまで辿り着いた。 ――明日の今頃は、フランスに向かう飛行機の中だ。 夕実は当分の間弾けなくなるだろう、試験もコンクールも乗り越えてきた相棒のピアノを優しく奏でた。
 
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