刻 売 り

     
     ――後編 「お疲れ様でした。お車はどう致しましょう。」       「そうだな、駐車場から出すだけでいい。今日は運転して帰る。」       秘書のいつもの言葉を背に、相澤はエレベーターに乗り込んだ。       昨日の男を思い出し、一瞬身構えたが今日は何もおかしなことは起こらず やがて1階へ到着する。          会社のビルをでて、比較的広い道路の前で地下駐車場からでてくるはずの車を待った。       風が、相澤のコートをなびかせた。       会社帰りの人々の波の中、子供の手をひく女性にふと目がとまる。 手をひかれる女の子が被っている赤い帽子が、黒いスーツの波の中で一際鮮やかにみえた。          ――どこかで見覚えが・・・。       女性にというよりも、女の子に見覚えがあった。       さて、知りあいだったかと記憶を探っているうちに、女の子が駆け出した。       「ねえ、パパいたよ!!」       道路をはさんでこちら側に、父親を見つけたらしい。       小さな身体が横断歩道へ飛び出した。       その次のわずか一瞬。       走る娘をたしなめていた女性と女の子を目で追っていた相澤の視線がふと交錯した。           ――しょーこ・・・祥子。         夢の中の少女の笑顔と父親に抱きついた女の子の笑い声と道の向こうにいる女性の顔が       相澤の頭の中で見事にリンクしていた。       今向こうにいるのは、間違いなく成長した祥子だった。              「思い出した・・・。」       相手は自分に気づいた様子はなく、相澤は声をかけようか迷っていた。       さっきみた夢のせいか、なんとなく気恥ずかしい思いもある。       しかし、自分の車がすでに会社の前に横付けされ、秘書からキーを手渡されても       そのまま立ち去るのはためらわれた。       向こう側に渡って一言挨拶してみようかと思いかけたその時、       突風が吹いた。思わず顔を覆う。       男の叫び声の直後、トラックが不快なブレーキ音をたてて止まった。              相澤の頭の中は、既に嫌な予感でいっぱいだった。       数秒のち。       意を決したように相澤が振り返るとそこには血の海が広がり、       女の悲鳴が響いていた・・・。       「私を、お呼びになりましたか?」       気づくと、刻売りと名乗った男が相澤の目の前にたっていた。       頭が、ひどく痛んだ。              「本当に、できるのか?」       「もちろんでございます。そうですねえ、30分ほど戻せばぴたりでしょう。」       「おまえ・・・。」       増していく頭痛に、思わず片手で頭を抑えた。            「それではよくお聞きください。あなたは2度同じ時間を過ごすことになります。        しかし他の人に違和感を与えないよう気をつけてください。        鈴の音が聞こえたら時間切れです。それ以上動こうとしないことです。」       ――まあ、動けたらの話ですが。         意地悪く最後の意味深な言葉は声にださずに、男は片手にもった鈴を鳴らした。            再び気がつくと、相澤は自分の机の前に座っていた。       時間は、あの男の言ったとおりあの瞬間のほぼ30分前だ。       「お疲れさまでした。お車はどう致しましょう。」       秘書の声に、どきりとする。          「ああ、駐車場からだしてきてくれ。運転して帰る。」       早々にエレベーターに乗り込み、建物の外へとでる。       そして赤い帽子の女の子を見つけ、彼女が父親の元へ駆けていくのを見届けると       相澤は横断歩道を渡った。       緊張で口がからからに渇いていた。       しかし、あの事故はどうしても防がなければならない。              相澤は軽く深呼吸すると、少し離れた娘の姿に微笑しながら歩く女性を呼び止めた。       「しょうこ。」       呼んだ瞬間しまったと思った。       彼女が相澤を覚えている可能性はゼロに等しい。       相澤自身も、あの夢があったからこそ思い出せたのだ。       「あ、いや。覚えているかな。 昔、近所に住んでいた相澤です。」       案の定、怪訝な顔をした祥子が思案げに視線を彷徨わせた。               ――だめか・・・。       「あ・・・りょうすけくん?」         半信半疑な様子で祥子が相澤の目を覗きこんだ。       「そう!思い出した? 久しぶりだね。こんなところで会うなんて。」       「ほんと、何年ぶりかしら。引っ越してしまってから会う        機会なんてほとんどなかったもの。」              祥子の顔が見る間に笑顔に変わった。       しばらくは、驚きの再会に話に花を咲かせた。       その間も相澤は女の子に注意をむけている。       道路の向こう側にはまだ相澤の車は来ていない。       「可愛い娘さんだね。それに優しそうな旦那さんだ。」         祥子の視線を辿るようにして2人をみ、並んで歩き出した相澤はそう言った。       正直な感想だった。       「そう見える?」       祥子の顔が心なしか歪む。       「え、ああ・・・。」       予想外の返答に相澤は戸惑った。         「元夫なのよ。離婚したの。今日は娘が会いたいっていうから・・・」       もうふっきれているのだということを示すように、大げさに明るい口調で       そう言った祥子を相澤は思わず見つめる。       「離婚したのか。」       「今時珍しくもないでしょう?」       悪びれずに言う祥子に、相澤は笑って頷くしかない。       前方の2人に視線を戻した相澤は、道路の少し手前にトラックがやってくるのをみた。       いつの間にか車をもってきた秘書も、相澤の姿を探している。       「危ない!!」       その叫び声に、祥子が驚いて目を丸くする。         「危ないって何が・・・」       その問いかけを無視して、相澤は走り出した。              ――もうすぐ、突風が――       無言で走り出した相澤に、何か勘違いしたらしい祥子が慌てて相澤を追う。         「ねえ、何する気?!」         必死で追いつき相澤の右腕を掴む。       その手の懐かしい感触を、けれど相澤は思い切り振り払った。       突風が、吹いた。       赤い帽子が目の前を飛んでいく。       それを追いかけて道路へとでた少女を、相澤は必死で捕まえ抱きかかえ、       転ぶような格好で走った。       女の叫び声とトラックのブレーキの音がさっきよりも数倍大きく聞こえた。       転がるようにして道路の脇へよける。       自分の腕の中で目を見開いたままの少女が傷をおっていないことを確認して、       相澤は意識を手放した。       薄ぼんやりとした世界の中、どこかで鈴の音が聞こえていた。              「世が変わっても人はなかなか変わらないものですねえ。」       どんな人間にも己の命をかえりみず、他人を助けようとする一瞬がある。       その一瞬につけこむのが他でもないこの刻売りの商売だ。       代金は金ではなく、生そのもの。       刻売りは、自分の歳など覚えてはいないだろう。       継ぎ足し、注ぎ足し、伸ばし続けてきた寿命ゆえに。         「今日の儲けは1年に足りないくらい・・・ふむ。まあ、ありがたく頂戴しましょう。」       ――相澤様、今後、お体にはお気をつけて。       意識を失っている40手前の極普通の男を前に、刻売りと呼ばれる男は暗い瞳で微笑んだ。
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