メルマガ 刻売りー前編ー










     江戸から明治へ移り変わる、文明開化の気配漂う世。
     下町を行く人々の間で実しやかに囁かれたある噂があった。


     「ねえお客さん、刻売りって知ってるかい?」

     「コクウリ?」
  
     「知らないの?なんだ疎いねえ。最近、ここらで評判だよ。
      何でも寿命と引き換えに時間を売ってくれる男らしい。」

     「時間?ばかな。」
 
     「そう思うだろう?でも、本当なんだってさ。その代わりね、」

     妖艶に笑んだ女を胡散臭げにみた男は、煙草の火を消し布団に横たわる。

     「その代わり、なんだ?」

     男の耳元に紅の唇をよせて女が囁いた。


     ――その刻売りって奴はさ、寿命がせまった人の前にしか現れないんだって。


     「・・・そりゃあ、あくどい商売だなあ。」

     「けどさ、いい男らしいからねえ。」

     そういって意味ありげに流し目を寄こした女を男は煩そうに振り払った。

     「そんなことどうだっていいさ。どうせ俺には縁がない。」

     「あらわかんないわよ。明日会うかもしれないよ。」

     「俺が?」

     「そう、刻売りに。」




     刻売り。
     それは時間と引き換えに残りわずかな寿命を奪う詐欺師ぜんとした男。






           刻 売 り

     
     ――前編                  時は流れ平成の世。      道に、店に、電車にバスに。      無数に溢れる人々は、現実だけを求めている。         「はっ。何が長年の経験だ。」      長身の男は重い会議室のドアを開けると、誰もいない廊下で独りごちた。      腕に抱えられた、もう用を成さない分厚い計画書を見やったその目は、ひどく濁っている。      「後何年待てばいい・・・。」      40歳に少し足りないくらいの年齢だが、彼はれっきとした社長だ。 但し、自他共に認めてしまっている見栄えのいいお飾り的な社長ではあるが。      昨今、経営者にまである種ルックス的なインパクトが求められるご時世である。           名を相澤という。                相澤がエレベーターに乗り込もうとした瞬間、彼を押しのけるようにして      突然、人影が現れた。      「なっ・・・気をつけなさい。」         軽く突き飛ばされる形となった相澤は思わず眉をひそめて目の前の人物を咎めた。      「すみません。ですが、あなたお探しですね。」      相澤と突如現れた青年の2人だけを乗せたエレベーターが鈍い音と共に動き出す。      「は?」      「私をお探しだったでしょう?」      柔和そうな糸目に少しだけ緩められた口元、華奢な体つき。年は20半ばというところ。      けれど相澤を驚かせたのはその着物だ。どう見ても平成、昭和どころの服装ではない。      控え目に見当をつけても、時代劇の稽古場からそのままやってきた役者――。      「さあ、人違いでしょう。」      「おや、そんなはずはないんですが。だってあなた、欲しいでしょう?」      「何を。」      「時間を。」      「時間?そりゃ貰えるものなら欲しいな。だが冗談に付き合っている暇はないんだ。       失礼するよ。」       開いたエレベーターのドアを塞ぐように男は身体を器用に滑らせた。      「おっと、困ります。話は最後まで聞いてもらわないと。」      あまりのしつこさに、相澤の顔に明らかな苛立ちの色が浮かんでくる。      「何だというんだ。」      「1時間につき1年の寿命。どうですか、お客さん?」      「はっ。とんだ詐欺だな。寿命が縮まっては面白くもなんともないだろう。」      「さて、どうでしょうか?最近は老後を持て余すなんて珍しくもないようですからね。       現在の1時間と、死の間際1年。お客さんはどちらをお取りに?」      「いい加減にしないか。芝居の稽古なら他所でやれ。」      「未来はイケナイ。けれどあなたの過去ならばどこまででも遡ってお返ししましょう。       あなたは2度、同じ時を過ごすことができます。       それに心配なさらずとも、御代はきっちり臨終の1秒前から勘定しますので。」      「今すぐ警察につきだしても構わないんだぞ。」       警察という言葉もまったく意に介さない様子で、男は軽く肩をすくめた。      「それでもあなたは買わずにはいられない。・・・期限は明日までとさせて頂きますよ。       その気になったらいつでもお呼びください。」      「狂っているのか・・・。」      その言葉に、怪しげな男はゆっくりと唇の端をあげて笑んだ。      妖艶な、とも形容できるその微笑に相澤はうすら寒ささえ感じる。      「そうお見えに?・・・ああ申し遅れましたが私、刻売りと申します。」      「コク、ウリ・・・?」      「ええ。良しなに、相澤様。」      突然舞い込んできた風が、着物を着た男の姿を揺らす。      思わず腕で目を覆った相澤が再び視線を戻すと、刻売りと名乗った男の姿は      既に消えていた。            「今のは一体・・・・。」      ――期限は明日までですよ。      ぼんやりと霞がかったような頭の中で男の声が響いた。       夢を、見ていた。       小さな手と手をしっかり繋いで、夕暮れの帰り道を歩く。              「りょーすけくん、あしたもあそぼーね。」               それは幼い頃の夢。隣で無邪気に笑う女の子の名を、もう少しで思い出せそうだ。       もう少しで――              「・・・・・・う、社長?」       軽く肩に触れられた相澤は、一気に意識を覚醒させた。       会議後自分の机で書類を作っていたつもりが、どうやら居眠りをしてしまっていたらしい。       「お疲れですね。昨夜も遅くまで?」       古株になる秘書の1人が何も言わずとも、コーヒーを淹れて運んでくる。       1口啜ると、普段より数段強い苦味と香りがぬけていった。              「例の件、どうなっている?」       一つ息をはきだして、前にたった部下へと声をかけた。       「はあ、会長のご意向に沿うことを重点に置き、白紙に戻させたのですが・・・。        社員からも不満の声が出ております。」       「・・・だろうな。」       相澤自身でさえ、稀にみる大きなプロジェクトが気まぐれともとれる会長の一言で       白紙の状態へと追いやられたことに、憤りを感じている。       「古い体制からの離脱を訴える声も少なくありません。社長の支持者も。           ・・・今がチャンスではありませんか?」       「チャンス、か。」       周りの者からこの言葉を囁かれたのは何度目だろうか、と相澤は苦笑した。         こちらが僅かでも動きを見せれば、向こうも黙ってはいない。       今まで、怯んだ部下達の寝返りを主な原因として潰れていった謀は、片手では収まりきらない。                                「考えておこう。・・・少し外してくれ。」             軽く一礼して部屋を出ていく部下を見送ると、相澤は深いため息をついた。       さきほどみた夢の残像が、まだ瞼の裏に映っている。       ――名前は、何だったろうか。       少女の笑顔が、妙な具合に心を揺すっていた。           
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