01.召喚




「ただいまー。」

誰もいないのはわかりきっているけれど、こうやってドアを開けると
必ず呼びかけてしまうのは小学生の頃からの癖だ。
綺麗に片付けられてがらんとした部屋。テーブルの上にはいつものように
お金と走り書きのメモのようなものがのっている。

――柚有。昨日、お風呂場の小窓の戸締り忘れたでしょ。しっかりしてよね。
  今日も夜にはかえれそうもないのでこれでご飯食べて。

母はいわゆるキャリアウーマン。私が小学校に入学してから、
母が家でゆっくり寛いでいる姿を見ることはまったくなかったと言っていい。
子供は二の次で、家でまで、パソコンに向かっているのが私の母だった。


何年たっても着心地が悪い制服からやっと開放されて、
ソファでくつろぎながらテレビを見る。
私と同い年の男子が親を刺したとか、政界の誰だかが不正行為をしていたとか。
見ているだけで気分が荒むようなニュースを何で大人は欠かさずみるのだろう。

ぼんやりと見つめているとまるでたくさんの光がちらちらとゆれているだけのような
その画面にいい加減嫌気がさして、リビングを出て向かいの部屋に入ると、
柚有は棚からフルートケースをとりだした。

組み立てて、その鈍い銀の光に唇をあてると、ひんやりとした感触がした。
もう、このフルートとは5年の付き合いになる。
10歳の誕生日にせがんで買ってもらったそれを柚有は今でも愛用していた。

確かに、5年も吹き続けているともう少しいいものを使いたくもなる。
けれど自分の努力と上達を一番わかってくれているだろうこのフルートを
換える気にはなれなかったのだ。


――そんなに好きなら、もっといい楽器買ってあげるのに。

昔、母がたまに家にいると仕事をしているのも構わずに
リビングまで引っ張ってきて、よく演奏会ごっこをしたものだった。
そのたびに、母は苦笑しながらそう言うのだった。

けれど今では、母とは滅多に顔を合わせないし、私のフルートを聴かせることもなくなった。


静かに息を吸い込んで、銀の笛に息を吹き込む。いつもの音の感触。いつもの響き方。
丁寧に時間をかけてウォーミングアップしてから、私は一枚の楽譜をとりだした。

題名のつけられていないその曲は、ここ数ヶ月柚有が何度も書き直しして作りあげた曲だった。

 「題名が、決まらないんだよね。」

ポツリとつぶやくと、柚有はその美しく、悲しい旋律を吹きだした。

♪〜〜♪♪〜♪〜〜〜

誰にも聴かせたことのない曲。私とフルートだけが知っているこの旋律。

完璧な防音室となっているこの部屋からは、1音も音が漏れていることはないだろう。

・・・いつだったろうか?
何時間でも飽きずにフルートを吹く私を、うんざりしたように見た母が
物置になっていた部屋を、この防音室に変えたのは。

――これで好きなときに好きなだけ、吹けるわよ。

そうにっこり笑った母の顔が知らない人のように見えたのは、気のせいだったのか。


 「ふぅ。」


気分が沈む日は、音も思うようにその色を変えてくれない。
無機質でぎこちなくて、つまらない演奏・・・。

特に受験がせまったこの秋、まわりの雰囲気がカサカサし始めると
冴えない音が続いていた。
最も、常に学年トップである柚有に勉強での悩みはあまりなかった。
子供に課された義務、くらいにしか思っていなかったのだ。
それも、達成するのに、多くの苦労は必要としない気楽な。
無論、親のすすめる名門校へもこのままなら問題なく入れるだろう。



けれど、よくならない音に観念して勉強でもしようかと思いはじめ、
最後の一回、と柚有がまた名前のない曲を奏で始めたその時。

突然、自分がたっている床がぐらりと揺れた気がした。

――地震?!
慌ててフルートをおろしたが揺れているような気配はまったくない。
気のせいかと思い、またその曲を吹きはじめると
今度は確かにゆらり、ぐらりと床がうねった。

足から力が抜けていくような感覚に、前に倒れそうになって反射的にフルートを庇う。
固い床に倒れるはずだった私の体はしかし、やんわりとした感触のものに包まれた。


――?!

何がなんだかわからず、最後に目に入ったのは眩しいくらいに輝く純白の光だった。




                                                                                    


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